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落石の歴史

名称の由来

落石(おちいし)という地名は、アイヌ語の「オク・チシ 人の首の付け根のくぼみ」に由来し、落石岬が本土につながる低地、現在の漁港周辺をさしている。また1643(寛永20)年、オランダの探検家フリースが根室市東梅へ金銀島探索のためカストリクム号で現地を訪れる前、落石岬を望見してマンスホーフト岬(人頭岬)と名付けた(これは落石の名が世界に紹介された最初)。偶然かも知れないが、その両者の共通性に興味深いものを感じる。
ほかにもアイヌ語の解釈には、

永田地名解は「オク・チシ Ok-chishi 地首凹みたる処」、知里地名小辞典「オク・チシ ok-chis 人体について云えば『ぼんのくぼ』。地形について云えば『峠』。okうなじchis中くぼみときしてあるが、ここは正にそのとおりの地形であった。

アイヌ語で「オク・チン(山の尾根のくぼみ)」に由来する。

などがある。

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1953(昭和28)年の落石


落石について

サケ・マス・コンブなどを生産する漁場として、落石地区は古くから漁業が営まれていた。江戸時代後期には水産物を求める松前藩の力がおよぶようになり、漁場が管理される。明治時代以降、旧国道のルートとして驛逓が置かれ、新たな漁業入植者などが住むようになり集落ができる。漁法の進歩や北洋への進出と、根室市の水産業の一地区(町)として発展。自動車が普及する前の国鉄根室本線の開通、落石駅の開業は町並み形成のきっかけとなった。またそれ以前のチャシ跡や竪穴式住居群跡などの遺跡から、より古い時代から落石の豊かな海が、この地で生きる人びとを支えていたのを知ることができる。海とともに生活する姿は、今でも変わってはいない。

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落石のあゆみ
1790年代(寛政年間)厚岸場所として番屋が設けられ、春から秋の漁期だけ居住。
1808(文化5)年厚岸→落石→根室の道路が開通、落石は主要な駅となる。
1868(明治元)年頃地区でのコンブ漁がはじまる。
1876(明治9)年

落石村、昆布盛村あわせて漁家20戸。

1880(明治13)年

落石郵便取扱所開局

1883(明治16)年

昆布採取組合設立。落石でもタラ漁をはじめる。

1887(明治20)年鮭営業組合設立。
1889(明治22)年中国に昆布輸出を始める。
1890(明治23)年落石岬灯台点灯。
1892(明治25)年落石小学校のもとになる教育所ができる。
1908(明治41)年落石無線(その後の無線電信局)開設。
1910(明治43)年石盛漁業協同組合設立。
1920(大正9)年国鉄根室本線が延伸し、落石駅開業。事務所駅前に新築移転
1924(大正13)年組合長表功碑除幕。
1930(昭和5)年 サケ・マスは氷詰め、冷蔵船にて甘塩等にて、東京・名古屋・大阪へ出荷。
1947(昭和22)年

落石中学校開校

1949(昭和24)年落石漁業協同組合設立、この春ニシン大漁。
1952(昭和27)年

落石漁港起工式

1955(昭和30)年西カムチャツカに組合自営のサケ・マス漁船出漁。北洋漁業最盛期を迎える(昭和40年代まで)。
1966(昭和41)年落石漁協がユルリ島の(168ha)の払い下げを受ける。落石無線電信局廃止
1976(昭和51)年落石漁港に漁協新事務所竣工
1977(昭和52)年200海里規制にて日本の漁業形態が大きく変化。
1992(平成4)年落石駅無人化
2010(平成22)年落石岬灯台霧笛廃止

旧落石無線電信局 北海道の無線発祥の地

1908(明治41)年、北米航路の要衝として船舶や航空機と無線電信を行うため設置された。千島・樺太(サハリン)・カムチャツカの陸上局(電信局・郵便局)とも固定通信業務を行っていた。業務内容は公衆電報・遭難通信・気象通報・航行警報および報時通信など。開設当初は落石岬側にあったが、1923(大正12)年に現在の場所に移設されている。1929(昭和4)年には、世界一周中のドイツの飛行船ツエペリン伯号の無線を受信。またアメリカのリンドバーグがシリウス号で、1931(昭和6年)に北太平洋横断飛行を行った時も、無線の誘導により濃霧の中を根室港に着水するという出来事があった。いずれも困難な状況の中、歴史に残る偉業として今も語られている。また1945(昭和20)年、旧ソ連軍(ロシア)の択捉島侵攻の無線電信の第一報を受信するなど、逸話は多い。
施設は1966(昭和41)年、札幌中央電報局に統合されることとなり、半世紀を越えるこの地での業務を終えた。その後、荒れていた建物を、銅版画家の池田良二・武蔵野美術大学教授が1985(昭和60)年より改修を続け、スタジオ(仕事場)として利用している。

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開設初期の頃旧無線局記念碑大正時代の道内回線図
全面PDF

※現在でもほかに、アンテナ塔の基礎と塔を固定するワイヤーの基礎などが残っている。

施設の全容
90m高のアンテナ塔をはじめとする5基の鉄塔群、居住棟が5棟・格納庫・共同浴場・テニスコートなど。居住区となっていた落石宿舎では職員の家族を含めて50人前後が生活していたといわれる。

落石岬灯台 日本の灯台50選

1890(明治23)年に『落石埼灯台』として、船舶の安全航行のため設置された。建造物高15m、水面から灯光の高さ48m、光は8秒ごとに1閃光する。紅白の塗り分けは日中でも目印、とくに積雪期でも目立つように景色に施されている。 初代は四角形の木造建築(鉄製円筒形という記録もある)の石油ランプ灯だったが、現在はハロゲン電球を使用、実効光度42万カンデラ(40W蛍光灯の約1270倍)という明るさで約35kmキロ先まで光が届く。GPSなどの機器が未発達だった時代、沖合を航行する船舶はこの光を確認した後に、北米へと針路を取ったといわれる。また海霧の発生が多い海域のため霧笛信号を併設していたが、2010(平成22)年に廃止になった。
霧笛はGPSの時代になっても、その音と余韻で方向を見極めていた年配の漁師の方々にあてにされ、利用されていた。今でも廃止を残念がる人が多い。

その他の略歴
1890(明治 23)年北海道で10番目の灯台として設置。
1952(昭和27)年コンクリート建造に建て替え
1960(昭和35)年燈台守がいた駐在勤務から交代制の滞在勤務に
1977(昭和52)年遠隔監視(無人化)
1959(昭和34)年霧笛信号併設
1966(昭和41)年現在の名称に変更
2010(平成 22)年霧笛信号廃止、撤去

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アフラモイチャシ跡

チャシはアイヌ語で、砦・館・柵・柵囲いをさす。道東中心に日高地方などに多く存在し、眺望のよい海・湖沼・川などに面する高台に築かれている。周りに一つまたは複数の壕を掘るのが大半で、木材の柵で囲って閉鎖的な空間としていた。 古くは神様が降りて来る場所として、聖域的な意味合いを持っていたとされ、次第にアイヌ民族同士あるいは和人との戦いの時の砦として使われた。また交渉や裁判 ・見張りなど場所としても使われたというが、その時代が歴史学・考古学上まだ不明な点も多いため定かではない。

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アフラモイチャシは『日本の名城100選』の根室半島チャシ跡群(国指定遺跡)の24ヶ所の1つ。三里浜を見渡し、霧多布方面まで遠望のきく絶好の場所にある。

落石神社

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創祀:明治44年10月18日

古く落石は信仰心が深く、故山崎基次郎が発起人となり、地区の平和と産業経済の発展を願い、また本人の崇高なる敬神の元、有志浄財を募り1911(明治44)年、社殿を造営、海の神・商業の神である事代主神を祀る。1927(昭和2)年に大物主神を祀り、落石金刀比羅神社と改称された。その後、倉稲魂神を祀り三祭神となる。現在の社殿は昭和37年に新築された神明造り。毎年9月28日、29日に例大祭が催される。

文献PDF

大物主神(オオモノヌシノカミ)
蛇神・水神または雷神として、稲作豊穣・疫病除け・酒造り(醸造)などの神として信仰。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神である。

事代主神(コトシロヌシノカミ)
海と関係の深いえびすと同一視され、海の神・商業の神として信仰。七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話におけるこのエピソードによるものである。

倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)
「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰。

真宗大谷派 高徳寺

1910年代(大正前期)に根室別院付属説教所として公許されるが、過去帳には1896(明治29)年からの記録がある、根室にある寺院は、太平洋戦争時の供出により梵鐘を失ったままのところが多いが、高徳寺では1947(昭和22)年に再鋳されている(根室市内で梵鐘があるのは3ヶ所)。また北方四島のにあった多楽島説教所の御本尊が安置。境内には50年ほど前に落石沖で沈んだ漁船の慰霊碑もある。

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                  第七長生丸遭難者追悼慰霊碑

曹洞宗護法山 正禅寺

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1900(明治33)年、富山・青森県より入植し漁業が営まれるようになり、地域の要請により1906(明治39)年 落石説教所として開山。春秋の彼岸・盆・地区の檀家の法事など、11/1から半月ほど成道会(じょうどうえ)で根室管内を回る。

檀家さんの話では、昔まだ港に防波堤も灯台もなかった頃、湾に船を入れるとき海面下に隠れている瀬(暗礁)を避けるため、改修される前の旧本堂屋根の天辺にあった擬宝珠(ぎぼし)を目印にし、その方向に進んだという。今では家も増え見通しも悪くなったが、当時は地元漁師さんたちの日常の操業の目印としても、活躍していた。

※擬宝珠(ぎぼし)=または葱台(そうだい)のことで、欄干などの天辺を飾る装飾。


参考文献等
『おちいし』(1976)落石漁業協同組合
日本地名大辞典 北海道(1987)角川書店
北海道 無線のあゆみ(1972)日本電信電話公社根室無線中継所
開校百周年記念誌潮風(1993)根室市立落石小学校
道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】(1995)鎌田正信
Wikipedia

資料協力
根室市歴史と自然の資料館